ふつうの子のよさ 相原次男先生のエッセー

6月7日、山口新聞の東流西流欄に相原次男宇部フロンティア大付属中・香川高校長が「ふつうの子のよさ」を書いておられる。

誰もが育ててみたい衝動に駆られるような優秀な子や、気になる子とは対照的に、いわゆるふつうの子への関わりは教育的死角になっている。日本の学校教育は伝統的にふつうの子の「よさ」を置き去りにしてきた、といってよい。(中略)教師は、ふつうの子の「存在」とその「よさ」に気づく、新しい教育的視覚を獲得しなければならない。(山口新聞東流西流欄より)http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/touryu

私自身も至って平凡なふつうの子で、目立つこともなく学生生活を送り、社会人になり結婚し、今に至っている。したがって呼び名も「○○ちゃん」「○○さん」であったが、結婚し、家庭に入ってからは「○○さんの奥さん」「○○ちゃんのお母さん」最近では、「近所のおばさん」「買い物客」「通行人」と名前さえなくなってしまっている。

話はそれるが、先日捕まった、菊池容疑者なども、名前のないふつうの人として、人口の多い都市に紛れ込んで潜んでおられたのであろうか。

末子が小学校に入学するとき、どんなランドセルが欲しいか聞いた時に少しショックを覚えた。「みんなと同じ色がいい」と言ったのである。彼女は常に目立たない方がよい、特別では無い方がよい、ふつうがよいと言うのである、幼稚園児がである。

彼女が堅実であると言えばそうであるのだが、「夢」がないように感じて、自分自身の育て方を反省した。知らず知らずのうちにそのように仕向けていたのかもしれない。

その後も、勉強やスポーツ等いろんな場面で、消極的、悪く言えば「テキトー」にやっているように思えた。親としては何事にも逃げているようで、歯がゆく思うことが多かった。

彼女に言わせれば、「将来こんな職業がいいな!と言うと、必ずお母さんが、その職業の解説をして、その職業に対する夢を打ち砕いた」と言うのである。

親としては、それでも「こうなりたい」とめげずに突き進んで欲しいと願ってのことだったのだが、裏目に出ていた‥‥(>_<)

しかも、彼女が1言えば、10にして返していたし‥‥(^^;)

良い所はとても沢山ある子ではあるのに、その良い所を充分に伸ばしてやることが出来たか反省することが多い。

彼女は彼女なりにがんばって、楽しく生活しているようで、救われるが‥‥(^_^;)

本当にふつうの子の「存在」と「よさ」に先生も、周囲もそして、一番に親自身が気づいてやらなければならないと思う。

一言:「後悔先に立たず、蛙の子は蛙。空飛ぶ蛙になって欲しかった!?」